岡山電気軌道清輝橋線の郵便局前の近くにある石像で、昔は岡山城の堀がここまであったようです。いと凄まじ。
郵便局の前にあります。市電の通り沿いです。石像の看板があります。金吾秀秋が20日で掘りを作ったそうです。
市内中心部には所々で目にする旧町名案内の一つのようでした。岡山中央郵便局前に説明パネルだけ立っており、特に遺構等を示すものはありませんでした。記念碑やモニュメントのような形状ではない為、気付く人は少なそうでした。
関ケ原の戦いで敗れた岡山の宇喜多家は改易となり、かわって小早川秀秋が備前・美作の領主として入封。慶長6(1601)年、秀秋は城下町を拡大したが、延長約2.5キロメートルの外堀工事に農民だけでなく武士も動員して20日間で完成したことから「二十日堀」と呼ばれるように。この外堀は現在の柳川筋で、碑は岡山中央郵便局にある。
郵便局前
岡山電気軌道清輝橋線の郵便局前の近くにある石像で、昔は岡山城の堀がここまであったようです。いと凄まじ。
石碑
郵便局の前にあります。市電の通り沿いです。石像の看板があります。金吾秀秋が20日で掘りを作ったそうです。
中央郵便局前の "旧町名案内" 碑
市内中心部には所々で目にする旧町名案内の一つのようでした。岡山中央郵便局前に説明パネルだけ立っており、特に遺構等を示すものはありませんでした。記念碑やモニュメントのような形状ではない為、気付く人は少なそうでした。
岡山中央郵便局
関ケ原の戦いで敗れた岡山の宇喜多家は改易となり、かわって小早川秀秋が備前・美作の領主として入封。慶長6(1601)年、秀秋は城下町を拡大したが、延長約2.5キロメートルの外堀工事に農民だけでなく武士も動員して20日間で完成したことから「二十日堀」と呼ばれるように。この外堀は現在の柳川筋で、碑は岡山中央郵便局にある。