鞆の浦の街並みの奥の方、つまり港の北側に、小烏神社という小さな神社がありました。あの福島正則が、鞆の浦の城下町を整備した際、鍛冶屋をこのあたりに集めて鍛冶屋町を造りました。鍛冶屋を営んでいる人たちが氏神様として祀ったのが、この神社の起源だといわれています。 こういういわれがある神社なので、鍛冶の際に火に風を送る送風機のことである「ふいご」を使う「ふいご祭り」は、この神社の例祭なんですね。
鞆の浦を散策していました。港西側の山すそに、寺社が建ち並んでいました。沼名前神社という大きな神社前の鳥居を過ぎたあたりに、小烏神社という小さな神社がありました。 神社前には、説明書きがありました。この小烏神社は、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが始まりのようです。また、南北朝の時代の古戦場でもあるそうです。古くから港町として栄えた鞆の浦の歴史が、ここにもあるん...
本殿は大きくありませんが、境内が広くとってある神社でした。足利尊氏の弟直義の養子直冬が反逆を疑われ尊氏の軍とこの小烏の森で戦い破れ九州に逃れたという場所だそうです。
神社の設備としてはあんまりいろいろなものがなくシンプルであるのに、敷地はけっこう広々としたかんじの神社です。だだっ広いという印象を受けました。しかしながら神社の奥にはさらに鳥居などがごちゃごちゃと集まるエリアがあったりという、あんまり見ない雰囲気・形状の神社だなと感じました。
この地に刀匠が集まっていたことをうかがわせる神社だ。祭神の天目一箇神は山陰地方の製鉄場、各地の刀の産地でよく見かける神様で、まさに鍛冶そのものだ。が、小烏大神はあまりよくわからない。ただ、表の鳥居から入ると神社で、裏の鳥居から入ると小烏大明神、また境内にはお稲荷さんも勧請されており、この地に集まった多くの刀匠の信仰心を満たす存在だったことがうかがえるようだ。足利尊氏ゆかりの古戦場でもある。
「ふいご祭り」は、この神社の例祭なんです
鞆の浦の街並みの奥の方、つまり港の北側に、小烏神社という小さな神社がありました。あの福島正則が、鞆の浦の城下町を整備した際、鍛冶屋をこのあたりに集めて鍛冶屋町を造りました。鍛冶屋を営んでいる人たちが氏神様として祀ったのが、この神社の起源だといわれています。 こういういわれがある神社なので、鍛冶の際に火に風を送る送風機のことである「ふいご」を使う「ふいご祭り」は、この神社の例祭なんですね。
鞆の浦の古い町並みの北側にあった小さな神社です
鞆の浦を散策していました。港西側の山すそに、寺社が建ち並んでいました。沼名前神社という大きな神社前の鳥居を過ぎたあたりに、小烏神社という小さな神社がありました。 神社前には、説明書きがありました。この小烏神社は、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが始まりのようです。また、南北朝の時代の古戦場でもあるそうです。古くから港町として栄えた鞆の浦の歴史が、ここにもあるん...
古戦場跡
本殿は大きくありませんが、境内が広くとってある神社でした。足利尊氏の弟直義の養子直冬が反逆を疑われ尊氏の軍とこの小烏の森で戦い破れ九州に逃れたという場所だそうです。
ぽっと広くあいている。
神社の設備としてはあんまりいろいろなものがなくシンプルであるのに、敷地はけっこう広々としたかんじの神社です。だだっ広いという印象を受けました。しかしながら神社の奥にはさらに鳥居などがごちゃごちゃと集まるエリアがあったりという、あんまり見ない雰囲気・形状の神社だなと感じました。
刀匠
この地に刀匠が集まっていたことをうかがわせる神社だ。祭神の天目一箇神は山陰地方の製鉄場、各地の刀の産地でよく見かける神様で、まさに鍛冶そのものだ。が、小烏大神はあまりよくわからない。ただ、表の鳥居から入ると神社で、裏の鳥居から入ると小烏大明神、また境内にはお稲荷さんも勧請されており、この地に集まった多くの刀匠の信仰心を満たす存在だったことがうかがえるようだ。足利尊氏ゆかりの古戦場でもある。